生活工芸の思想1 「言葉の誕生とその背景」

安藤雅信 (陶作家)  辻和美 (硝子作家)  三谷龍二 (木工家)

司会:山本忠臣(ギャラリー やまほん店主)
会場:ギャラリーやまほん

山本

本日はお忙しい中「生活工芸展」にお越しいただきありがとうございます。みなさんは、生活工芸という言葉を耳にしたことはあると思うんですが「生活工芸って何だろう」となると、ジャンルなのか、何なのか、よく分からないというところがあるのではないかと思います。生活工芸という言葉は、辻和美さんがディレクションをされて2010年に金沢で開催された「生活工芸展」から始まっています。それから7年が経とうというところですが、僕自身も、この言葉は何のために必要だったのかとずっと考えてきました。

今年1月に東京で雑誌『工芸青花』が開催した「生活工芸と作用展」(2017/1/18~2/15 会場:la kagu)で、安藤さんと話をさせていただいたんですが、その時に、ようやく何か見えてきたというか。生活工芸というのは、実は、思想なのではないかと思ったんです。それで、今回「生活工芸の思想」というトークイベントを企画させていただきました。

ではまず、金沢で2010年に辻和美さんがキュレーションした「生活工芸展」の始まりについてお聞きしたいと思います。


生活工芸という言葉はどのように生まれたのか

みなさん、おはようございます。辻和美と申します。山本さんに、生活工芸について話してくれと言われまして、ちょっと戸惑いました。また同じようなメンバーが集まって、同じような話をするのもどうかと思ったんですけど、山本さんの話を聞いていると、始まりはもしかして金沢じゃないかというようなことを言われて、考え直しました。私は、金沢で「生活工芸展」を3回組み立ててきました。今日はそのことについて話しにきました。私は、金沢にある「モノとヒト」というショップも含めると足掛け5年間、生活工芸という言葉と一緒に生きてきたんですね。この言葉が寝ても覚めても頭の中から離れず「いったいこれは何だろう」「私はこれで何をしたいんだろう」ということをずっと問いかけてきた6年間だったんです。

始まりということでお話をする前に、まずは金沢という土地がどういう土地かということをお伝えしたいと思います。金沢というのは、現在でも税金の1割が美術や工芸に使われているらしいです。工芸ということに関しては、ものすごく寛容な、慣れた街です。昔からなぜ工芸が盛んだったかというと、この話は加賀藩・前田家の時代にまでさかのぼります。前田家は、外様でありながら100万石を所有する大きな大名でした。そこで、その規模に関して幕府から目をつけられないように、武力ではなくて工芸という文化を政策として奨励してきました。その政策のひとつに「加賀のお細工所」というのがありました。いまは「卯辰山工芸工房」というものになっていますが、ガラス以外の陶芸、金工、染めなどの工芸の作り手を集めて、技術を高めていった場所です。お殿様から発注をうけて工芸品を作るという場所でした。また、前田綱紀公は、全国からいろいろな工芸品を見本として買い集めて資料づくりもしておりました。ですから、もともと金沢というのは、工芸と政治の距離が近い街なんですね。いまでも金沢市にはクラフト制作課という課があります。それから、クラフトビジネス創造機構という独立した部署もあります。金沢には「工芸家を金色の絨毯を敷いて育てる」というような言い方もあります。そういう街なんです。いわゆる伝統工芸や日展や鑑賞工芸という分野が着実に育って、工芸家が大きな力を持ち、政治の方に助言を求められたりすることはあるようです。

そんな中、ある日、金沢市のクラフト制作課から「伝統工芸や鑑賞工芸だけじゃない、若い人がやっているクラフトというか、お皿やコップというような手仕事のものは、何て呼ばれているの?」と私に問いかけがあって、2010年に最初のミーティングが開かれました。そこで私は「いやあ、何だろう。クラフト? いや、もうクラフトじゃないかな。生活工芸かな?」とぽろっと言ってしまったんですね。というのは、もうその頃には、この言葉はちまたでチラホラと使われ始めていました。もちろん市民権をもたずに、なんとなく。 それにプロデューサーがすごく反応しまして「その言葉はいい、その言葉は、ぜひ使おうじゃないか」と言い始めたんです。つまり金沢においては、生活工芸という言葉は、鑑賞工芸、伝統工芸と区別するための言葉として分かりやすかったようです。自己表現のための工芸、素材の可能性に挑戦する工芸というより、人間の生活を中心に考えられた道具を中心としたモノたち、そういうものとして一般の方に認識されやすい。そういうスタートで生活工芸という名前を使い始めました。ただ「生活工芸展」のディレクターを命ぜられても、いったいどうすればいいのかと。そこで最初に相談したのが三谷龍二さんですね。1回目の展示では、三谷さんにオブザーバーとして入ってもらい、いろんな意見をいただきました。

「生活工芸展」の一回目は、「生活工芸とは何か」ということをテーマに掲げました。「使い手の達人」と展覧会の本には書いてありますが、スタイリストさんやデザイナーさん、作家など、生活者を18人セレクトさせていただいて、「あなたが生活工芸だと思うものは何ですか?」という問いに対して、10点のものを選んで出してくださいという展覧会だったんです。そうしてやってみたら、生活工芸というのは、その人の生活はもちろん、生き方とか考え方、収入(笑)によっていろいろと違うんだなというのがよく分かりまして。というのも、生活工芸として、亀の子たわしを出した人もいれば、何千万円の茶碗を出す人もいたんですね。そういう違いが見られる展覧会になりました。酷評もありましたが、個人的には、今でも1回目が一番興味深い展覧会です。はじめて自分で企画した展覧会だったこともあり、その後も続けてやりたいと思ったんですね。

というのも、1回目は、使い手の展覧会としてやりましたが、使い手は生活という言葉に対しては反応が鋭くいろいろな選択をしてモノを選ばれていますが、工芸ということに関しては、そんなに興味がないんだなあというのが分かった展覧会でもありました。生活に使うモノをたくさん出してくれましたが、工芸を感じることはあまりできなかったというのが自分の感想です。それでこのままでは終われないなと。1回やったからには、欲が出たのと、不完全燃焼だったんでしょうね。なんか、表現しきれていない……。2回、3回とやり続けなくてはいけないなと思いまして。2回目の時に相談に行ったのが、安藤雅信さんです。「1回目は使い手目線の展覧会、それを経て、実は生活工芸は使い手ではなく、作り手にとってのムーブメントでもあると実感した。次は作り手、繋ぎ手というふうに三本柱でやりたいと考えてるんだけど、助けてくれないか」という感じで安藤さんにアドバイザーとして入っていただいてミーティングにも来ていただきました。ここまでが、一応、始まりです。

山本

当時、三谷龍二さん、辻和美さん、安藤雅信さん、内田鋼一さん、赤木明登さんの5人が前の時代とは明らかに違ったものを提案していました。それがいわゆる生活工芸のスタイルという形に変わっていったんですよね。このメンバーが提案している器が生活工芸ではないかというふうに見られるようになりました。でもこの5人が「生活工芸派」と言われるようになってきたことにより、生活工芸の背景がまったく分からなくなってきたと思うんです。実際には、前の時代との関係性の中で生まれてきたものがたくさんあって、生活工芸のきっかけは、実は90年代から始まっている。そのあたりのことを、安藤さんにいろいろと聞いてみたいんですが。


生活工芸の背景には、バブル期のものづくりへの反発があった。

安藤

こんにちは。安藤です。僕は57年生まれなので、バブル経済で一番盛り上がった時代が、ちょうど20代後半から30代前半の頃でした。その話をする前に、僕がいつもよく語ることなんですが、美術の歴史を簡単に振り返ってみたいと思います。日本の美術というのは、明治時代にフランスから取り入れた西洋アカデミズムを元にしていて、美術大学では、いまでもそれを中心に教えています。自己表現や表現する自由というような基本的人権の確立というような考えに基づいて、作り手が自分の中で自己完結して作品を作っていくという、そういう教育がメインだったんだと思います。そういう傾向は、バブルの時にすごく拡大しまして、もうとにかく何でも売れる時代だったので、作品も巨大化して、色もカラフルになり、バブルのおかげで生活は豊かになったにも関わらず、何かこう、作品が一般的な生活から離れていくということがあったんですね。 それは経済も同じで、こんなに沢山作ってこんなに売れていくっておかしくないか?というくらい、ものが売れる時代だったんです。大量生産、大量消費が本当にずっと続いてました。僕は、ちょうどその頃に作家活動を始めたんですけど、その波にどうしても乗れなくて。結婚して新生活を始めた頃でもあったんですが「こんなにものがあふれていても、自分たちの生活の中で使いたいものがないじゃないか」と。トイレのスリッパにしても、てぬぐいにしても、鍋とかポットにしてもシンプルなものがない。大抵、花柄が入っていたりして、満足できるものがなかったんです。そういうものでいいものがあれば、僕は生活工芸の作家にはならなかったかもしれないんですけど、探しても探してもいいものがなかったので、じゃあ作ろうということで器を作り始めたんです。

バブル期のちょっと前の70年代〜80年代には、雑貨ブームというのがあって、ヨーロッパの工業製品でシンプルでお値打ちというものが、雑誌などを通して日本にたくさん入ってきていました。そういうものを見てセンスは磨かれていましたし、食事も、バブル経済の前は、スパゲッティといえば、ミートソースとかナポリタンくらいしかなかったのが、呼び方もスパゲッティからパスタに変わって、沢山の種類が食べられるようになりましたし、中華料理も麻婆豆腐、天津飯しかなかったところが種類も増えました。食卓も、ちゃぶ台からテーブルと椅子と、生活のいろいろなものが変化したんですね。すると、それにふさわしい器というのが本当になくて。工業製品はあるんですけど、何だか物足りない。喉の渇きのようなものを感じていました。僕はよく「隙間産業」と言うんですけど、工業製品と自己表現の工芸品の間にあるものがすっぽり抜け落ちてたんですよね。僕も、辻さんも、三谷さんも、申し合わせたわけじゃないけれども、80年代、90年代に同じような喉の渇きを覚えて、個人的にそういうものを作り始めたと思うんですね。他にもいろんなジャンルの作家がそれを始めたと思います。

そんな時に新潮社の編集者の菅野さんが『芸術新潮』の2001年4月号で『現代の器』という特集をされました。そこで初めて、僕や内田くんや赤木くんが取り上げられた。老舗の骨董屋さんがふたりと、新感覚派と呼ばれる「古道具坂田」の坂田さんと「魯山」の大嶌さんが登場して、朝食でどういう器を使っているかというテーマで器を出していたんですね。これがまったく両極端で、京都の柳さんは辻村史朗の大きな角皿にお寿司がのっていて「朝から寿司か!?」と思いました。坂田さんは、僕の板皿にさんまが一匹という極端に貧相な朝食でした。すごく面白い企画だったんですけれども、その雑誌に載ったことで女性誌や工芸誌が僕たちを取り上げてくれました。そんな風に「何となくひとつの潮流になってきているよね」というのが2000年代初頭ですね。2003年〜2005年辺りからそれが見えてきて、2010年の金沢の生活工芸プロジェクトに結実したんだと思っています。

山本

生活工芸というのは、誰かリーダーがいて「こういう考え方でものを作っていこう」というのではなくて、偶然的に同じような考え方でものを作った作り手がいたということだと思います。三谷さんもその代表的な作家の一人です。僕はいま43歳ですけれども、10代の頃、家の中にあった木の器はウレタン加工されたもので、三谷さんが作るような「無塗装で木そのもの」というような器はなく、木工作家と言えば家具をつくる人でした。器をメインで作る人はいなかったと思うんですね。僕は、生活工芸は三谷さんのそういう器から始まったと思っています。そのあたりの時代背景やどのように作ってきたかというのを、三谷さんからも聞いてみたいと思います。
欲しい器を作ることがもたらしたもの

三谷

こんにちは。三谷です。私が仕事をはじめたのは1981年でした。その4年後に、松本で友人たちとクラフトフェアを始めたのですが、その仲間たちが、ちょうどその頃、工房スタイルといって、無垢の木を使いオイルフィニッシュで仕上げる家具の作家たちでした。僕はそうした家具に魅力を感じていましたが、無垢の木の良さを生かしながらも、高額な家具とは違うものができないか、より生活に近いものができないかなと思ったところから器作りを始めました。最初に作った食器は、バターケースでした。木工といえば家具と決まっていましたが、それを食器の方向にと導いてくれたのは、高校生の時に読んだ伊丹十三の本だったように思います。そこにもバターケースのことが書いてありました。日々使うものがプラスチックの安いものではつまらないだろう、誰に見せるわけでないそういうものこそ、疎かにしないで吟味して選ばなくてはならない、そのようなことが書いてありました。伊丹十三は『女たちよ!』という本の中で、目玉焼きの食べ方とか、スパゲッティの食べ方、作り方っていうのをやるわけですが、生活の些細なことにもこだわるそのような態度に出会って、こういうものの考え方があると、すっかり影響を受けたのでした。

そんな風にして、木の器を作り始めたのですが、器の世界は、洋家具とは違う広がりがありました。陶磁器や漆器など工芸を知ることによって、モダンデザイン以前、長い日本の伝統とつながる回路がそこにできたことが、僕にはとても大きかったと思っています。それからは近代以前の工芸と、現代の暮らしの両方を視野に入れながら、仕事をしてきたと思います。

ところで、僕が生活品を作るようになったのは、伊丹さんの影響もあって、生活好きというのがもともとあったからだと思います。人の暮らしにずっと興味があったのです。縄文時代から、江戸時代、戦前戦後と庶民の生活史というのは連綿と続いている。それは政治や経済といった歴史とは違う、もうひとつの人間の歴史だと思います。普段使いの食器は、庶民の生活に結びついていて、だからこそ人間の根本的なものであると思うのです。暮らしを下支えしていくというか、箸一膳、コップひとつは小さな存在にすぎませんが、それがないとひどく困ることになる。動物のような暮らしなら何かで代用できるかもしれませんが、人間的に生活を送る上では、生活道具は欠かすことができないもの、それが文化なのだと思います。

秦秀雄さんは「毎日のご飯茶碗というものを疎かにするならば、ほかに何を大事にすればよいか分からない」というようなことを書いています。日々使うご飯茶碗を疎かにして得たものというのは、例えば仕事の成功であったり、お金であったりするかもしれません。でも、そういう事を優先して、日常茶飯のことはずっと疎かにされたり、後回しにされてきた。それに対して秦さんは、そんなものよりも「生活って大事なものだ」というんです。僕は生活工芸というのは、運動というのではないと思っています。運動というのは家の外での活動という印象がありますが、生活工芸は家の中で、食卓に座るそれぞれの胸の内で、日々の暮らしを大事にしたいと思うことなのだと。そんな一人ひとりの「大事」にしたい気持ちが、不連続の連続というかたちで繋がった、そんな動きだったと理解しています。

山本

工芸には、産地の焼物や伝統工芸、民藝などありますが、僕自身は、民藝運動の思想、つまり柳宗悦が提唱した考えを大きく継承していると思っています。一番は、柳さんが発見した民衆の「下手の美」。金沢でいえば、金箔の貼られた豪華な美術品が工芸とされていた時代に、産地で学校も行けずにろくろをひいて作っている人の作るものが美しいと。下手とは一般、つまり並という意味ですがその中に美があると。たとえば、多治見のような産地であれば、人間国宝の作家もたくさんいますし伝統的なものが根強い。その中で、安藤さんの作品のような軽やかなものが出てきた。当時は、陶芸として認められないようなものだったかもしれないですけれど、技術だけじゃなくて生活に近い、かなり個人的な自分の世界で作っていった。それぞれが、自分の世界を突き通したと思うんですね。生活工芸の作家たちがどこで感性を養っているかといえば、生活というかなり小さな自分の世界の中で、自分に正直に向き合って作る。それを継続して作り続けていくという部分に根っこがあると思うんです。そして僕は、生活工芸のそういうところに興味があるんです。

3人ともいまここに並んでいますけれども、似ているようで違うバックグラウンドを持っています。私は、アメリカの現代美術に憧れてその作家になりたかった人間なんですね。最初はそういうものを目指して、大学もアメリカに行きました。アメリカの美術、アートというものはものづくりのヒエラルキーのトップにあって、そこを目指すように教えられるんですね。工芸は、むこうではクラフトと言われるんですけれども、それはアートの下にあって工芸は下の人が作るもの。全くマーケットが違うんです。アートは、ラグジュアリーマーケット。クラフトは、広場とかクラフトフェアで売っているもの。私がアメリカにいたときは、クラフトのギャラリーはすごく少なかったですね。アートのギャラリーはいっぱいあるんですけれども。だから、20〜30代にかけてアートのほうを目指して、そこに行きたいという欲がありました。というのは、ガラスという素材を手に入れてしまったので、やっぱり、その素材ありきだったんですね。ガラスという素材を使ってハイ・アートに挑戦すること自体が、いま思えば間違いだったんですけれども、そこにチャレンジしていました。いろいろともがいたんですけれども、何かうまくいかないんですね。

そんな時に、自分の生活のために器を作り始めました。そうしたらそれを欲しいという人が現れました。あげると喜ばれたりして。現代美術を一生懸命やって、展覧会を2週間やっても、せいぜい30〜40人が来て、訳が分からないみたいな顔をして帰っていくということがあって、そんな時に器を人に手渡して喜んでもらえるということがこんなに嬉しいんだというのを経験しまして。私は現代美術を通してコミュニケ—ションの希薄さをテーマに表現したかったので、器を作って、手渡して、喜んでもらうことで、人と人のコミュニケーションの潤滑油になるような仕事ができるんじゃないかと。むしろ、そういう攻め方のほうがアートなんじゃないかということを感じたんです。それが、私の生活工芸のスタートです。私自身はいまだにそれを信じてやっているんですけれども、生活工芸といってもみんな少しづつ違うと思うので、安藤さんの話も聞いてみたいと思います。

安藤

さきほど山本くんが「個人の」という言葉を使って、辻さんも「自分の攻め方」という言葉を使っていましたけど、違うんじゃないかなと思うところもあります。おそらく動機は個人的なものだったかもしれないけれども、90年代のバブルの後というのは、何か社会全体が枯渇感に包まれて、喉が渇いているというのがあったと思うんですよね。僕は、アートというのは、人々が見ていても気づかなかったことを気づかせるものであり、デザインというのは、問題解決だと思うんですね。バブル期までは、工芸は自己表現だとされていて、社会的な問題解決にはまったく関わってこなかったんですが、生活工芸と言われている作家たちは、90年代に人口が増えて社会が繁栄する中で「何かが抜け落ちている」ということを敏感に感じとっていて、それを解決しようとしてものを作り始めたのではないかと。

たとえば、僕が取り入れたのは定番定価制なんですけれども、それまでの作家ものというのは「今後同じものは作らないからその時買わないとだめだよ、値段が上がるよ」ということでステータスを上げていった。いま買っておくとお得ですよというようなことで、商売が成り立っていたと思うんです。でも実際は、気にいったものがあったら、5年後、10年後に補充したいと思うじゃないですか。当時は、定番とか定価ということをやっている作家がいなかったんですよね。それから、とにかくシンプルな器。和洋中の特定のイメージがついていない多用途な器というのがなかった。日常に使うものでこういうものがあったらという問題が山積みだったんですよね。バブル期のあとでもそうでした。そういうのを敏感に感じて、三谷さんはバターケースや木の皿にいいのがないとか、辻さんもガラスコップにいいのがないとか、個人の生活から発案したものであるけれども、それがおそらく社会の役に立つだろうということを考えてやったのが生活工芸だと思います。生活工芸がそれまでの工芸と大きく違うのは、自己表現ではなく、デザインなのではないかと。一般的には装飾するということをデザインと捉えると思いますが、デザインの本当の意味は「構築する、計画する」ということなんです。そういうデザインの本質的なことを90年代の作家は敏感に察知して、社会に対するひとつのテーゼとして出したんじゃないかなと思っています。個人なんだけど社会、というのがある。生活工芸は思想じゃないかというのは、そこに根拠があると思いますね。


生活の中の問題を解決するために作る

三谷

問題解決のためのものづくりというのは、僕もずっと考えてきたことのように思います。大きなことを言っても、実は世の中はそれほど変わらないというのを見てきた反省もあるんですが、もしも社会のどこかで自分を必要としてくれる人がいて、その問題を自分の経験と知恵で解決できるなら、それは大切な仕事なのではないかと思うのです。使う側から見れば、作家の作為というのは、やはり気になるものですし、だからあまり主張の強いものは敬遠するというのもよくわかります。それよりも、道具なのですから、使う人が気持ちよく、いつまでも使ってもらいたいと思う。だから自己表現より、問題解決型で考えるようにしてきたのです。靴の中に入った小石のように、暮らしの中には気になる事、ちょっと嫌だな、と思う事があります。それを解決してあげると、とても気持ちが良いもの。そんなやり方だと理解してください。ただ、問題解決といっても、必ずしも依頼者があるというわけではありません。まだ社会の表面に顔をだしていない、無意識の底に沈んでいるような問題に気づくこと、それはまだ形を持たないもので、そういう事も創造的な仕事の一つではないかと思ってきました。

例えば産地で働く工人は、技術はあるけれど、都会の暮らしとは離れているため、何を求められているか、作っていいのかわからない、といったことが出てきます。どこに問題があるのか、それを見つける事、それも大切な事なのです。編集者やスタイリストの目は、ある意味消費者の代表のようなところがあって、その見つける力が影響力を発揮してきました。現在のような消費社会では、使う側の欲しいものでないと売れない。作る側が一方的に物を供給することが非常に難しくなっているのです。生活工芸の一つの特質は、作る側でありながら、使う側の立場で欲しいと思うものを作っていくという自他の境を紛らかすようなこところだと思いますが、これは時代がそれを求めたという事でもあると思います。

山本

三谷さんがおっしゃったことはよく分かるんですが、もともとは、そこまでは想定していなかったと思うんですよ。たとえば安藤さんのいう個人的な小さな発見が、結果として誰かに届いたりすることはあっても、最初から社会に向けて作るということではなかったと思うんです。そういう意味で僕は、この時代に社会が求めた共通項だと思っているんです。

安藤

生活工芸の作家たちの第一世代の共通項というのは、たとえば、僕は「ギャルリ百草」を始めてそこで文章も書いて表現してきました。辻さんは「factory zoomer」というショップ、三谷さんは「10センチ」というギャラリー、内田くんは「BANKO archive design museum」というミュージアムを始めた。みんな文章を書きますし、それまでの工芸家とちょっと違う。「ものだけ見てもらえば分かるよね」ではなくて言葉でも説明する。お店でも自分のものだけではなく、他の作家のものもセレクトして見ていただいたり。自分の作品は、人の手に渡ってしまったらなかなか表に出ないものだし、作れる量に限りがあるじゃないですか。でもギャラリーや文字媒体になると広がっていきやすい。生活工芸の第一世代には、個人活動がきっかけではあるけれども、社会に広げていきたいという想いが強くあったと思います。

私も安藤さんと全く同じで、広めていきたいと思いました。自分が作るものを一個でも多く人に渡したいと思ったんですけれども、その時、自分と同じように考えてくれるギャラリーが少なかったんですね。そういうわけで、ここにいる人たちは、作り手でもありながら、ディレクター、プロデューサーもやらなくてはいけない、デザインもしなきゃいけない。デザインと工芸の融合のようなところの仕事をしなくてはならなかった。プレゼンテーターがいなかったんですね。こういうものは、一点ものというよりも、ある程度マスで売っていかないと広まらないと思うんです。「一個、素敵な作品がありました。誰かに渡りました」ではもう誰の目にも触れなくなってしまうじゃないですか。ある程度リピートで自分のやっていきたいことを広める活動ですよね。

私たちは売ることに関して貪欲だった思います。かなり売ってきたと思います。その売り方も自分で色々と考えました。売るということに関して、私たちの前の世代は「作品なのに売るものを作るというのは何事だ」というような風潮があったと思うんですけれども、でもやっぱり、売るということは広めるということだと思うんです。そして、ある程度マスで動いていかないと誰も気づいてくれない。「何で広めるの?ただ作っていればいいじゃない」という人がいるかもしれないけれど、私たちの活動は広めていかないといけない。三谷さんがこの間「そうしないと、すぐに自由じゃない空気が流れてくる」とおっしゃったんですけれども。自分がいいと思っている活動だから、続けていかないといけないと思っているんです。

三谷

生活工芸というのが、始まりから20年ぐらい経って下火になったというような声を最近聞きます。流行だということで下火になるんだったら、それでいいと思うんです。でもやっぱり、生活に近い道具というのは人間の暮らしの基本にあるものだと思っているので、そういう核にある考えを問題にしないで、擬洋風の流行りものというような言い方で片づけられてしまうとしたら、違うんじゃないかとは思うんです。そして、生活工芸の代わりに復活してくるものが、かつての大ぶりな前衛工芸だったり、技術偏重の工芸だったり、工芸が生活から離れていた時代に戻るようなものであったら、たまったもんじゃないなというのはありますね。

僕たちは強い気持ちで、生活工芸のことを考え実践してきたつもりです。だから僕たちの発言に対してではなく、なんでこんなことがここ30年起こってきたのかとそれぞれが考えてもらうきっかけになったらいいのにと思います。

gallery yamahon | 三重・伊賀

Exhibition 静かな造形物展
2017年9月9日(土)〜 10月8日(日)

gallery yamahon
〒518-1325 三重県伊賀市丸柱1650
tel/fax 0595-44-1911
closed 火曜日
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京都やまほん | 京都
※移転しました


Exhibition 唐津と伊万里展
2017年9月15日(金)〜10月4日(水)

京都やまほん
〒604-0931 京都市中京区榎木町95番地3
延寿堂南館2階(二条通寺町東入)
tel/fax 075-741-8114
closed 木曜日
kyoto@gallery-yamahon.com