生活工芸の思想3 「器とオブジェ」

内田鋼一 (陶芸家)  三谷龍二 (木工家)

司会:山本忠臣(ギャラリー やまほん店主)
会場:ギャラリーやまほん

山本

第3部は「器とオブジェ」です。僕自身、伊賀という焼物の産地で生まれて2000年にギャラリーを始めましたが、当初から、美術が上で工芸が下みたいなことはなんとなく感じていました。その中で僕がやりたかったことは、美術作品も器も、美としては同じなのではないかということです。アメリカのアーティストのドナルド・ジャッドのステンレスのオブジェと器を並列において、美しさとしては全く変わらないだろうということを僕なりに見せました。2002年に、三谷龍二さん、内田鋼一さん、安藤雅信さん、井山三希子さん、植松栄次さんでグループ展をした時には、安藤さんが主にオブジェを出品してくれて、内田さんにも三谷さんにも器とオブジェをお願いしました。先程もいいましたけど、フラットな視点。当時は「工芸作家は美術作品をつくったらダメ」とか「本腰をいれてやっていないじゃないか」と言われる風潮もあったと思います。僕は、生活工芸は美術ではないと考えていた時期もあったんですけど、自分がやってきたことを生活工芸と照らし合わせてみて、そうではないというのが分かってきました。三谷さんも内田さんもオブジェや立体作品を作る。そのあたりについて聞かせてください。

三谷

僕は、器が9割5分くらいで、すこしだけ立体を作っているんですね。その間を行ったり来たりすることに対しては、あんまり違和感がなく、全然違う世界という感覚はないんですね。日本の器と西洋の工芸に違いがあるとすれば、西洋の場合、例えばヴィクトリアン調の建物であるとか王宮とかそういうところに行くと、絵付けやレリーフがあしらわれた大きな壺がおいてありますね。あのように工芸は室内装飾の一部という感じがするんです。ところが日本の器というのは、室内装飾とは違って、ものがそこにあるんだけれど、ものではなくて、ものが内に抱えている沈黙のようなものが胸の内側にすっと入ってくる、それを玩味するようなところがある。それが日本の器の質であるし、単なる実用でも装飾品でもないと感じるところがあります。最近よく言われている「作用」ということでいえば、まさに心の中に何らかの作用を与えるということが日本の器の特質で、だから器は作用的なものをもともと持っていた。日本の工芸には備わっているものなんだと思うんです。だから実用品を作っても、非実用品を作っても、どちらの場合にも同質のものが底流に流れているから、行き来することも割合自然にできるんだと思います。

それから、立体を作るときには、とても個人的というのか、自分のためにやっている気がします。道具に関しては、ちゃんと人に伝えていく、広げていく、あるいは売っていくということでやっている感じがありますが、お金に換えないものもやりたい。経済性と文化性とのバランスというのか、開くことと閉じることのバランスというのか、「人はパンのみに生きるにあらず」ですから、売らないものも一方で作っていきたいというのがあるんですね。

言葉は難しいと思うのは、生活工芸という言葉にしても、自分の中にあるうちはいいのですが、それを外に伝えようとすると変質するんですね。僕らは生活という大地から離れないところでものを作ることが大切だと、そんな風に思って生活工芸と言っているのですが、それを言葉として外へ出すと、若い人は生活工芸派の枠に自分も入れられてしまうとか、自分たちのステータスを上げようとしているとか、思わぬところに言葉が変質してしまう。伝えることは、難しいものだと思います。それは柳宗悦の書いていることと、民藝協会として広がることとは違うことと似ていて、個人の外に出た時、その思想は変質していくわけですよ。もちろんその変質を受け入れるかどうかというのは、また別の次元であって、それを受け入れて、なおかつ大切なこと、やれることはあると思うし、いやその変質した世界はいやだという人もいると思うし、それでいいんだと思うんですよね。そこはもうその人その人が「僕はこういうことをしたいんだ」と言っていけばいいことだろうと思います。だから僕なんかは、生活と工芸の関わりのようなところに関心があるだけで、ただ生活工芸という言葉を広げることが大事とは思えないんですよね。言葉に必然があれば、多くの人の口にのぼり、残っていくだろうし、流行りで終わっていくかもしれない。そんなふうに僕は思っていますね。


オブジェではなく限定された用途のない立体作品

内田

内田です。さっき三谷さんとも話したんですけど、自分は、器以外の仕事をオブジェとは思っていなくて。お皿やカップのように限定された用途のない立体作品を作っているということなんです。オブジェという名前からくるような摩訶不思議な感覚ももちろんないし、作っているものが生活工芸だと思って作ったことももちろんない。第2部で、安永くんが、一生懸命、生活工芸と絡めて話をしていたのがすごくかわいそうだなと。彼は生活工芸だなんてこれっぽっちも思っていないと思うし、生活工芸にあてはめる必要もない。さっき安藤さんが言ったように、長くやっているからそこから見えてきて自分で腑に落ちていく。思想的な強い思いがずっと続いていって「俺はこういう思いで作っているんだ」「こういうことは譲れないんだ」「だからこうなんだ」という思想に繋がるんであって、思想ありきでものを作っている人なんて、導入の段階ではほとんどいないんじゃないかな。やっぱり、作り手は作ってなんぼ。もし会社に勤めていて、夜からの自分の時間に作っているような人がいたら「とにかく売れるようにやって、これだけで飯食っていきたい」。そういう中で「いまこういうのが売れてるんだったら、それを作れば買ってもらえるんじゃないか」という動機がほとんどだと思うんだよね。ある意味、不純なのかも知れないけど。

僕は三谷さんの次くらいにキャリアが長くて、27~28年になるんだけど、いま思えば、最初の頃は自己表現絶頂の時代だったから、白磁のお皿をグループ展に出しても返品されるのね。いまだと普通に受け入れてくれるじゃん、でも当時は全然受け入れてくれない。手紙がついていて「ドラマがない」って書いてあった。「なんだよ!」って思った。でも食ってかなきゃいけないから、何かしなきゃいけない。何をやらなきゃいけないのか。絵を描かなきゃいけないのかとか、もうその試行錯誤。いまみたいに同世代のギャラリーなんていなかった。ギャラリーの人はみんなネクタイをしていて、百貨店の美術画廊あがりか、美術系の彫刻とかを扱うギャラリー。デパートが上のほうにあって、その下に工芸ギャラリーがあるんだけど若手に声がかかることはまずない。グループ展で声がかかればラッキーでありがたいけど、企画内容は「色絵展」「織部展」だったりする。やったことはなくても電話がかかってきたら「やります、やってます、得意です」みたいなことを言って仕事をもらう。そこからは試行錯誤で、やっている人に聞いてみたりしながら食い繋いでいく。でもだんだん、これがほんとにやりたいことなんだろうかって。俺は、彫刻とか美術も好きだったんで、単純な衝動や想いから立体のものを作るようになって。でもそれだけで発表させてくれるところもないから、展覧会があったらそこに混ぜて出したり。するとそれを見て「これだけでやりませんか」みたいな声がかかって、結果として広まっていった。最初から「俺はこういうのでやっていくんだ」というような感覚はほんとになかった。だけどその中でどうやって自分の好きなものを浸透させていくか、そして飯を食っていくか。譲れるもの、譲れないものが出てくる。ギャラリーやお店から言われることにも「いやそれはできない」、「やりたくない」ということとの葛藤の中でずっとやってきて、その積み上げがあっていまなんで。だから、僕は俗にいう生活工芸のギャラリーでほとんど展覧会をやってないよね。これまで付き合ってきたギャラリーへの恩義もあるし。生活工芸って言われたからって作るものは変わらないんだよ。

美術館の展示で人間国宝みたいな人もいる中に、僕みたいのが行くのは居心地の悪さはある。でもそれが現実だと思う。現実の中で自分のやりたいことを模索しながら、やりたいことをやれる状況を作っていく。辻さんがいった自由というのを勝ち取っていくというか。自由を勝ち取るための努力をするっていうだけ。立体をやっているからといって、彫刻家になろうとか、現代美術のギャラリーでやろうとかいうのもない。もちろん声がかかることはあるけど、それよりも自分が好きなアーティストや絵描きが本業の仕事の脇で陶器を作るとか、針金細工で作るとか、ブリキで作るとか、そういうものに「ああいいよな」って感じちゃうわけじゃない。余儀の仕事だけど「らしさ」が出てるわけ。そういう仕事をしていると、本業でやっている人に「なんちゃってな仕事だ」とか思われるかもしれないけど、そんなことどうでもよくて。自分が仕事をしていく中で楽しみを見つけていって、それが他の仕事にもプラスになっていく。誰かにやらされるわけじゃなくて、自分がやりたいからやる。自分の衝動から生まれてくるものが、結果、器ではない仕事に繋がっていく。三谷さんにしろ、僕にしろ、そういうのが許されるような形に自分たちでしていった。だから、はなから二刀流で行ったわけじゃないんだよね。

三谷

僕は、40歳くらいのときに絵を描き始めたんですけれども、絵は売れるものとは考えていなくてただどうしてもやりたいからやっていました。誰も知らない絵描きだから、木工をやっている自分が、絵を描いている自分のスポンサーになろうと思ったわけなんですよね。スポンサーだから、自由に描かせてくれる。自分の中にそうやって守っていく部分と、攻めていく部分と両方あったと思います。社会に対して開いていく自分も大事だと思っていたし、閉じていく自分も大事だと思っていたので、どこを開いてどこを閉じていくかというのをよく考えていた気がします。そういう中ですこしずつ作っていって、本当にいいと気がついた人がいたら、見てもらってもいいんですけれども、気がつかなければそのままでもいいという感じがあって。人間の中にあるふたつのものを並行してやってきたということだったと思います。


工芸家が作る立体作品は生活工芸か

山本

工芸家は、オブジェを作る時、作りたいから作るという話がいま出ましたけど、それを話すことが、工芸家が作る造形が受け入れられる土壌を広げると思うんです。人間国宝だからいい、伝統工芸だからすごいというのではなく、一般の人にも開いていくという意味では、オブジェがなぜ生活工芸かという問いを考えることには意味があると思うんです。

内田

工芸家が作るオブジェというのは、見る側や扱う側、お金を儲ける人たちが思っていること。ただ、ものづくり同士でいえば「こいつやるな」っていうそういう感覚はね、絶対にある。ものだけ見てどれだけ評価するかっていうのは感覚的なものじゃない? 美術館だったら、評価するのはディーラーやコレクター。そこに生活工芸の人たちなんかいなくて、いまここで話していることを聞いたら、ちんぷんかんぷん。共通言語じゃない言葉を話しているんだと思う。現代美術系のギャラリーでやっているから、立体を作品と呼ぶし、価格もそうなるというのはある。でも、もの単体でいえば関係ない。工芸家が作る湯のみ、これがすごくいいから、現代美術のギャラリーが湯のみだけでやりたい。そういうことがあってもいい。ただ、作る上では、どういう意味をもって作ったとか、どういうプロセスで作ったとか、そういうことを作者は説明しなきゃいけないと思うよ。古いものは、作った人が亡くなったらもののステージがひとつ上がったりする。でも生きている限りは、説明責任がある。近代の作家も説明が残っているよね。フラットっていうけど、現代美術の業界にもしっかり世界があって、工芸ギャラリーには分からない常識も、お金の動き方もある。あちらは、工芸ギャラリーの感覚が分からないと思うし、デパートのことも分からないんだと思う。ただ、それはやる人間が選べばいいことで、作家は堂々とやりたいことをやって、発言するよりはまずものを作ってというのが一番分かりやすい。

でも確かに、器じゃどうしても表現しきれないことをしていたり、安永くんが言っていたように「プロセスが面白い」っていう感覚はすごくある。焼物は、木工や金属みたいに、大きな材料を持ってくればいいってものでもなくて、なんでもないところから土を構築していかないといけない。構築していく間に、焼物の場合は、乾燥や重力の影響、水分が抜け出て縮むとか、なおかつ、そこから焼くっていう作業が入るんで、科学的にも物質が変わってしまう現象があるから、すごく不自由なんだよね。ただ、その不自由さは焼物じゃないと味わえない。火にかけたり溶けたり、それが面白いなというところはすごくある。これは焼物じゃないと表現できないもので、器とは違う感覚で作るものもあるんだけど、作ることに関していえば、そんなにたいそうなことは考えてないよね。

三谷

70年代の最初の頃に京都に住んでいましてね。いまはもうないですけど「カルコ20」っていうジャズ喫茶があったんです。そこは地下の暗い感じではなくて、外光が入るジャズ喫茶で。フランソワ・トリュフォーの『大人はわかってくれない』のポスターが貼ってあり、奥に入っていくと山本容子の「バンドエイド」や、李禹煥の「点より」が飾ってあったんですね。まだ70年代の始めなんで、ふたりとも描いたばっかりであったり、学生だったくらいの時期だと思うんですが。その時の感じが良かったので、僕にとっての現代美術というのは、美術館というより、わりとその気持ちのいい喫茶店の空間なんかと繋がっていて、生活の中にそういうものがあると気持ちがいいな、というのがあるんです。それから、山本容子の「バンドエイド」は、自分がすごく作り上げているというよりは、ただバンドエイドをいくつもいくつも並べて描いているという感じで、ちょっとその薄い自己表現の感じが良かったし、李禹煥の「点より」も、ただ、点点点とやっただけというね。自分の作るという行為を小さくしているところが、良かったんだと思います。その感じが自分でも好きで、当時演劇をやっていて、公演ポスターとかを作ってたんですが、そこで石を積んだケルンだとか、布を風になびかせて変化する形を撮影して、画面上にそれを連続して並べるとか、そんなことをしていました。できるだけ自分で作らないで、ただものがそこに存在することをポスターにするようなことを、やっていたんですね。思えばそこでやっていたことと、いまの自分のもの作りというのは繋がっているような気がしますね。自分を抑制することや、作家性を小さくすることで際立ってくる物質のリアリティを大切にするとか、そういったことが。それを無意識に器に置き換えているのかもしれないと、ちょっとそんなふうなことは思いますね。内田くんは、最初の出会いってどんな感じ?

内田

自分は美大に行ったわけではないですけど、海外に早くから行っていて。美術館とか博物館というのは、無料だから、まあ、金もないし、そういうところにいて。描いたり作ったりするのは小さいときから好きで、ものを作って生きていきたいというのはずっと思っていて、見ることもすごく好きだった。当時はそれが焼物というのではなかったけど。ただ、好きなものと嫌いなものがすごくはっきりしていました。この間、中学校の同級生がいまの家に来て「うっちゃんの家、中学校の時と変わんねえな」っていったの。家には、古い土器があったり、鉄のものがあったり、絵がかけてあったり、錆びたものだったり、石のものだったり、世界各地のそれこそ紀元前のものから並んでるのに、そこに来た友達が「変わんない」って。実家は名古屋の港区の工場街にあって、中学生で、錆びたものとか、石のものとか、オートバイの部品とかが部屋に並べてあった。それとほとんど雰囲気とか色合いが変わらない。ものは変わったけどテイスト的なものは変わらない。僕が世界中のいろんなところに行って、自分のお土産として買って来たものは、時代も国もバラバラなんだけど、僕のフィルターを通すと似ちゃってる。作るものもそうで、器だろうが、立体だろうが、オブジェだろうが、同じ人間が作ってるんだから、まあ同じような感じになるのは普通なんじゃないのかな。


シンプルなものの中に強い思いが詰まっている

山本

鋼一さんと三谷さん、年齢は違いますけど同じ時代に活動をしていて、明らかに時代が変わっていったという認識はあると思うんです。生活工芸を考える上で時代性というのは大きな要素だと思います。昔は「工芸家の作るオブジェ」という見え方をしていたけれども、それが徐々に変わりつつある。そういうふうにフラットに物事を考えるということは、重要なことではないかと。「古道具坂田」の坂田和實さんがよく言うように、骨董品は選べるけど自分の靴下は選べない、何百万の骨董は買えるけど時計は何千円でいいとか、もちろん値段じゃないんですけど、まわりの評価ではなく、自分に正直に好きなものを好きと言える時代、選べる人がいる時代になっているんじゃないかと。

三谷

内田くんが言ってましたけど、バブル期の前に、前衛的で表現欲の強いオブジェの時代があったんです。それらを見たりしている時、若いから生意気もあるのですが、工芸はずいぶん遅れてるなって感じがしたんですね。美術だったら今頃こんなことはやっていないよなということをやっている気がした。だから、このままではだめなんじゃないかって思いました。でも、実際は逆で、そういう工芸が全盛時代だった。だからあくまで自分の好みだっただけですが、それでもいかにも凄そうな身振りとか、人を驚かすような作品とか、そういうのは好きではなかったし、もう表現としては難しいな思っていました。人って成長しないなと思うのは、仕事を始めて、自分なりにいろいろ学んだり勉強したりしたつもりなんですが、若い頃に好きだったものというのは、変わってないような気がしているんです。その辺の時代って、内田くんにとってはどんな感じだった?

内田

「世の中に向けて」とか「メッセージや大義がなきゃだめだ」って言われ続けていたよね。僕もよく言われたし。でもそれを本当に思っていた最初のパイオニアの人たちはそうだけど、そのあと追随した二番手、三番手というのは「それをしなきゃいけない」っていう風潮。よく考えたらそのパイオニアを残すために、一生懸命、屋台骨を作っているだけの足場固め。そういう意味ではヒエラルキーの上をいく時代の代表選手として残っていくんです。ただ、最初のものに似たようなものになっていく。そういう時代に居心地の悪さを感じた人が「そうじゃないよね」っていう試行錯誤の中で、簡略化したり、自己を抑えていった。でも「強い想いがあるんだ」「想いがなきゃ作れないよ」っていうのは、根本にはあると思う。シンプルで何でもないっていうところだけひとり歩きしていくと「それじゃ面白くない」っていう次の人たちが台頭して、またその次が、って繰り返す。

だけど、自分が何をしたいかっていう強い想いがあったら、時代とは別のところで、その状況は見つつも「俺にはできない」とか「これはやりたくない」とかちゃんと選ぶ。そういう個人個人の積み重ね。ものすごく盲目的に尊敬して、憧れてるという人はそういうふうにはならないだろうけど、自分なんかはそういうものがなかったんで常に離れてて。自分がやりたいこと、やれることを淡々とやっていく。それをさせてくれた人がいて、なんとかやってこれて、これからもその人たちと一緒に何かやっていけたらいいなっていう。なんとなく雰囲気でというのではなくてね。「出会って知り合ったからには」という想いも強いし。25年前とかは、バブルの名残はあったというか、いつも臨戦態勢に入ってた。展覧会でも「やってやるぞ」という気持ちがあった。そういう中にいると、こっちがちゃんとしたものを持っていないと太刀打ちできない。言われた時に返せるちゃんとした何かがないと。声を大にして言わなくても、聞かれた時にはちゃんと対応できるようにしてないとだめだなというのは、いま思えば、あったな。

いまはギャラリーの人が同世代で、同じ音楽を聴いたとかいうような共通の部分もあって、扱う方も作家も「肩を組んで行こうぜ」みたいのがあるから、それは気持ちいいんだろうね。僕らなんか、一生懸命背伸びしなきゃいけなかった。反対にギャラリーやお店の人たちは、若い奴をひっぱり上げてやろうっていう使命感みたいなものがあったと思う。育ててるという感覚もあっただろうし。そんな中で、背伸びしたら大人の景色があって、こういうことなのかと。 ギャラリーは敷居が高かったから、若い人たちは、陶器市やクラフトフェアでものを発表していた。発信の場としては、クラフトフェアは一番。現金収入になるし、次のステップになる。クラフトフェアは絶対的に必要なんだけど、そこに居座らないということ。ある程度生活できるようになってギャラリーにお世話になるようになったら、そっちにシフトして関係を構築していかなければいけない。

三谷

第2部で、川合くんが2005年くらいにクラフトフェアに出て、その頃が面白かったって言ってましたけど、確かに、2005年から2010年くらいが一番面白かったと思います。フェアをはじめて20年ぐらいしてからで、やはり長くやっていたからそういう時期が来たということであると思いました。その人たちは、今はあまりクラフトフェアには出てないですから、次のステップに行ったのだと思います。その頃「素と形」という展覧会を松本市美術館やったのですが、そういうこともあったと思います。思うにクラフトフェアがいる、いらないではなくて、どんな風にやるかが大事だと思うんですよね。それはものを作ることと同じなんで、絵でも何を描くかではなくて、どんなふうに描くかっていうことが大事なんだから。クラフトフェアを開催している人は、ただやるだけでなく、どうやるかを、もっと考えて欲しいとは思います。それによって全然違ってくるんですから。