生活工芸の思想4 「生活工芸と社会の関わり」

菅野康晴 (『工芸青花』編集長)  森岡督行 (森岡書店)

司会:山本忠臣(ギャラリー やまほん店主)
会場:ギャラリーやまほん

山本

第4部は「工芸と社会の関わり」というテーマで『工芸青花』編集長の菅野康晴さんと、銀座で「森岡書店」を営む森岡督行さんと話をしてみたいと思います。

菅野

こんにちは。新潮社という出版社で『工芸青花』という雑誌を作っている菅野です。入社以来『芸術新潮』という雑誌の編集部にいました。そこで三谷龍二さんや内田鋼一さんと仕事をする機会があって、生活工芸という言葉はその頃は使われていませんでしたが、彼らの仕事、暮らしの中の工芸ということにひかれて、いまも取材を続けています。『芸術新潮』のあとは単行本の部署に移り、おもに『とんぼの本』という小型のビジュアル本のシリーズを担当していました。『工芸青花』は2014年に始めました。年に3回、1000部ずつ作っています。本の刊行だけでなく、講座や花会、骨董祭などのイベントなども行なっています。

森岡

こんにちは。森岡と申します。普段は東京の銀座で「森岡書店」という屋号で本屋をしています。一冊の本を売る本屋というちょっと変わったコンセプトで店を運営しております。工芸との関わりでいくと、菅野さんが編集長をしている『工芸青花』で編集員をやらせていただいております。菅野さんが『とんぼの本』をやっていらしたときに自分の日記の連載の依頼がありまして、その関係で『工芸青花』のホームページでいまも連載をさせていただいております。それと生活工芸のいちファンという立ち位置もあります。

山本

菅野さんは『芸術新潮』時代から取材を通して時代の流れを見てこられましたし、森岡さんは工芸にも精通されています。90年代くらいから傾向が変わっていったという感覚はありましたか?


2000年前後に現代工芸の 風向きが変わった

菅野

そのことについては、みなさんの話につけ加えることはあまりないのですが、骨董界のことをいうと、97年から目白の「古道具坂田」の坂田和實さんの連載を『芸術新潮』で始めました。いまは「古道具坂田」はよく知られたお店ですが、当時はいまほどではなくて、知る人ぞ知るという感じでした。生活工芸の作家たちは、坂田さんが紹介してくれたのです。器作家だけでなく、建築家の中村好文さんとか、当時は生活工芸の作家たちのDMの多くを作っていたデザイナーの山口信博さんとかも。さきほど内田さんが「常に臨戦体制だった」とおっしゃっていましたが、そうした意識は、あのころ坂田さんも中村さんも持っていたように思います。確かに安藤さんがいうように、2000年頃を境に逆風が順風に変ったかも知れません。とはいえ現代工芸界を広く見わたせば、いまでも決して主流ではないでしょう。

森岡

時代の変化。菅野さんから2000年前後に変わったとお聞きして、自分もそうだなと思います。書店という立場からすると、2002年だったと思います。江口宏志さんの「ユトレヒト」が開店しました。松浦弥太郎さんの「カウブックス」もそのあたり、中島さんの「リムアート」兼「ポスト」もそのあたりに開業されています。またアートに目を向けても「横浜トリエンナーレ」と「越後妻有の大地の芸術祭」もその頃に始まりました。何かは変わったというのは言える。三谷さんも著書で2000年くらいから変わったと書いてある。それは興味があるし、それは何か思想の変化なのだろうか、などと考えています。

山本

ギャラリーやまほんのオープンも2000年です。工芸と社会との関わりという点でいうと、柳宗悦は、民藝として、河井寛次郎、浜田庄司という個人作家に何を求めるかということを言っています。『工藝の道』でも冒頭に言ってますけど、「社会的任務を熱望する」と言っているんですよね。安藤さんは、社会性を考えてやっているという言い方をしていましたよね。木工家の川合優くんも林業に対して貢献したり、よくしたいという思いがある。いまはそれを「いち工芸家が何を言っているんだ」ではなく、「そうだよね」と聞いてもらえる状況がありますよね。作家が個人表現を重視していた前の世代とは大きく違います。

菅野

三谷さんは「個人」、辻さんは「自由」という言葉で語っていましたが、いわゆる生活工芸の作家の器を使うことで、そうした意識が暮らしに、社会に、少しずつですが浸透していったということはあると思います。私自身がそうでしたから。編集者としての意識も変わりました。近代ではもう個人が作る工芸品は「無名」ではありえない、「民藝」ではありえない、「作品」でしかありえないと思っているので、どんなにシンプルで安価であろうと、個人作家が作るものにはオリジナリティがあるべきです。それこそが大量生産の工業製品と、彼らの器とを分かつものであり、価値なので。彼らの器を買って使う人々の暮らしに、彼らの器が何を与えるのか。そのことを現代の作家は考えぬいて器を作っているはずだし、またそうであってほしいと思っています。


「生活工芸派」の功績を明らかにする

菅野

2015年に三谷さんとともに『「生活工芸」の時代』という本を作りました。山本さんも筆者のひとりですね。「生活工芸とは何か」を考えようと思ったのですが、答えは出ませんでした。生活工芸を定義しようとすれば、「生活とは何か」にも答えを出さないといけない。もちろん生活は人それぞれで、生活工芸も人それぞれ、ということになってしまう。だから本としては、あまりまとまっていません。それはそれで、多様な考えをおさめることができてよかったと思っていますが。生活工芸のことは本を出したあとも考えていて「そうだ。物ではなく、人で括ればいい」と思い直しました。つまり「生活工芸とは何か」ではなくて、「生活工芸派とは誰か、生活工芸派が行ったことは何か」を考える。生活工芸派とは誰か、これもいろいろいいだすとややこしいので、線引きを明確にしました。「生活工芸」と銘打った催事はふたつ、金沢の「生活工芸プロジェクト」と、高松の「瀬戸内生活工芸祭」です。両者に共通して参加した作家は5人。安藤雅信さん、赤木明登さん、内田鋼一さん、辻和美さん、三谷龍二さんです。彼らを「生活工芸派」と呼び、彼らの作品の特色、共通点、その意義を考えようと思いました。それは先程からみなさんがお話しているようなことですが、ひとことでいえば近代日本の工芸観からの自由、解放でしょうか。和食器中心だったそれまでの食卓の光景を変えたのは彼らです。

先日、取材でオランダとスペインへ行き、いくつかの美術館を見てまわりました。興味深かったのは、オランダでもスペインでも、1900年前後になると印象派風の絵が急に増える。少し遅れますが、日本でもそうですよね。でも、そうした印象派風の絵を描いた画家を印象派とは呼びません。当時のヨーロッパ中の画家にとっていかに印象派の絵がまばゆく見えたか、いいかえれば、それまで主流だった古典主義的な宗教画、歴史画、肖像画のスタイルから、彼らがどれだけ解放されたがっていたか。そのあらわれのようで、とてもおもしろかった。おそらくその頃、ヨーロッパで絵画というジャンルが刷新されたのだと思います。「生活工芸派」の仕事もそれに近いところがあると思います。彼ら以降、2000年代以降、個人作家が作る器のスタイルが大きく変化しましたよね。クラフトフェアや器ギャラリー、ライフスタイル誌などで見る器のほとんどが無地、とくに白。器形も、和洋を問わないシンプルなものばかりになりました。いま振り返れば、そして日本の器の歴史からみれば、明らかに不自然で偏ったスタイルなのですが、当時はそれを「普通」という言葉で語っていました。

森岡

菅野さんの話を聞いていて、「自由」「生活工芸派」という言葉が印象的でした。『生活工芸の時代』を読みましたが、確かに多様で、なかなかその定義がつかめませんでした。むしろ本のシンプルなデザインが生活工芸というものを表していたように思えました。いずれにしても私は生活工芸とその時代は、まだ続くだろうと考えていました。

菅野

今年の1月に新潮社の倉庫を改装した「la kagu」というショップで、「生活工芸と作用展」(2017/1/18~2/15 会場:la kagu/東京 神楽坂)という展覧会を企画しました。生活工芸は「ギャルリ百草」の安藤さんと「ギャラリーやまほん」の展示、作用のほうは「OUTBOUND」の小林和人さんと「Gallery SU」の山内彩子さんの展示です。4人の座談会も行ないました。作用という言葉と概念は小林和人さんが提唱したもので、いまは詳しく触れません。展覧会の主旨を記した文章で「生活工芸派の器の特色は、自我の最小化と器の彫刻化」と書きました。自我の最小化というのは、三谷さんが先ほどおっしゃった「小さな自己表現」に近いと思います。「器の彫刻化」のほうは、例えば走泥社の作家たちはオブジェ陶とともに花器なども作っていますが、あれは「彫刻の器化」です。生活工芸派の器は、器でありながら彫刻的な美しさをもつ。それを「器の彫刻化」と呼んでみたのです。ベクトルが逆なんです。生活工芸派の作品が「自我の最小化と器の彫刻化」的な特色を持つことになる原点には、「古道具坂田」の影響が強くあると私は思います。

なぜならシンプル、無地、白、普通、といったキーワードは、坂田さんの物選びにも当てはまるものです。ただし普通といっても、坂田さんの場合、「ありふれたものの中からありふれていないものを見つける」という眼です。洋の東西を問わず工芸の歴史は、いかにありふれていないものを作るかという面があります。素材、技術の稀少性を尊ぶ。それはわかりやすい基準ですが、そうした稀少品が工芸品の10パーセントを占めるとしたら、坂田さんの選択はまずそこを外します。そして残りの90パーセントのなかから、彼が美しいと思う10パーセントを選ぶというものです。「生活工芸派」の仕事も同じだと思いませんか? 一見、普通で、何でもないもの。でもどこか違う。また違っていなければ意味がないのです。無地の器、白い器にするのは、「一見」普通、ありふれたものに見せるためでしょう。しかし実は器形も、質感も、ありふれたものではないのです。それが彼らの技術です。そこに私は、坂田さんと生活工芸派の共通性があると考えています。

人はおそらく基本的に不安な生きもので、それが宗教の起源でもあると思うのですが、近現代人はあまり宗教に頼らなくなった。その代替物としての工芸、器という考えは、私はじゅうぶんにありうると思っています。先程の三谷さんの「生活を大事に」という言葉も、心のよりどころとしての生活という意味ですよね。現代作家が作る器も、単に使いやすさや、料理が盛り映えするということだけでなく、使わない時でもそれがあると安心する、よりどころのひとつになりうるということは、工芸のことを取材していてよく実感することですね。

山本

用途と心理的な作用、どちらももともと器にあるんですが、「OUTBOUND」の小林くんはそれをあえて「作用」と定義することによって、作品を世の中に広めていこうということだったと思うんです。鑑賞という「用」のために作られているという点では、器もオブジェも変わりないのではないかと、僕は思っています。